無限プール

基本的に褒め言葉しか言わない

焼き包子クワトロチーズ!! in ファミマ

バイトの帰りに空腹すぎて買っちゃいました。 130円だった。麻婆まんより断然安いし食べてみたかったんだよなぁ。包子初体験。頼む人少ないのか「包子ください!」って3回くらい言っても通じなくて恥ずかしかった。結局ちょっと遠いけれど指差した。

で、味レビュー。

パンはふわもち食感ってかんじ。案外やわらかいもっと硬いのかと思ってたぁ!麦っぽい香りはする。チーズはクワトロってくらいだし4種類混ざってるらしい。でもわかんない。トロッとした感じに混ざってる。溢れない程度に柔らかいクリームっぽい食感のチーズ。美味しい。具はチーズだけなんだけどたっぷりめに入ってるのでかえって嬉しかったかも!!

あんまり重すぎず、なおかつそこそこ満足感がある感じでよかったですね。小腹が空いて発狂しそうになったらこれがおすすめ〜〜。

「桜の樹の下には」の話

自分の現文演習が第1回で終わっちゃってガチめにつまらんので、モチベ保つためにほかの人の発表やら先生の話の内容とそれについて思ったことをごちゃごちゃながらも軽くメモることにした。割と内輪向けのアカウントですし飽きたらやめます。 ちゃんとした勉強らしいまとめ方はしないので、色々不十分な部分はあると思うが許せ。

今回は梶井基次郎桜の樹の下には」!

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.htm

読んでない人向けのあらすじ説明: 「俺」(成人男性、なんかやたらと暗い)が「お前」(同年代の男性と思しい)に向けて、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という連想を語る。この「俺」という男は生命の繁栄の裏側にある死のイメージによって安心させられているらしい。

梶井基次郎の小説、死とか性のモチーフがやたら多い。「或る心の風景」も「冬の蝿」もそうだし。「交尾」「或る崖上の感情」も。ほかにもあるだろうが読んでないもしくは覚えていない。そういう主題の割に文章があんまり不潔じゃないというかむしろ透徹な感じがあるのはすごいと思う。

① 生死、美醜、性について

桜の樹の下には」は 美←→醜 生←→死 を桜の花とその根というかたちで対比している。空に向けて伸びる地上の花は美しく爛漫に咲き誇っているが、深くに伸びる地下の根は醜悪でグロテスクな屍体から養分を得る。 (そもそもその表現はボードレールの詩の影響を受けているんじゃないかという話もある)。 美醜・生死の相反する二つの性質は独立した別個の存在ではなくて、延長線上にあるものだという話。だから桜は「安全剃刀の刃」を連想させるし、削除された章によれば「俺」の想像する剃刀の刃には“Ever Ready”とある。 その桜の下でやっと不安にかられずに花見ができるようになるのだ。 ……という風に発表について理解した。 けれど屍体の描写は醜悪と意見に留めるにはあんまり綺麗だったとわたしは思う。「水晶のような液をたらたらとたらしている」の部分が特に。 また、交尾後の薄羽かげろうの屍体の描写も同様に美しい。何万匹もの亡骸は水に浮いてまるで油を流したような光彩を放っている。 ということで、授業内でお話のあった性のモチーフが大事になってくる。 美←→醜 生←→死 をつないでいると言えるのが性のモチーフだからだ。 まず花の美の形容、「生殖の後光」。 桜の根に対する「蛸」「いそぎんちゃく」の比喩。 「アフロディット」のように生まれ「美しい結婚」ののち産卵を済ませて死んだ薄羽かげろうの墓場を見て「屍体を嗜む変質者のようなよろこび」を味わう場面。 汗を「精液」と同一視させる描写。 生殖というのは本来生を生み出す営為であるが、梶井基次郎は生殖を死と密接に関わるものとして考えていた。薄羽かげろうの場面だけでなく、別作品ではあるが、「或る崖上の心情」にもそういう描写があると指摘されていた。 生死が表裏一体であるだけでなく美醜もひとつながりのものであるが、生殖のグロテスクと屍体のグロテスクは同一だ。 生死と美醜とは別個の対立項であり、負のイメージが必ずしも否定的なイメージとして描写される訳ではないことをここで確かめて置かねばならないだろう。

② 桜という表象

桜の樹の下には」の桜は山桜。 モデルになった湯ヶ島の桜が山桜なんだって。言われてみるとそっちの方が合う。 桜はそもそも頻繁に和歌で詠まれる歌材、すなわち伝統的な美意識にそぐわしい花である。 またそのために、桜というのは国粋主義者が臣民の象徴として扱われるようになる。 国学者本居宣長の詠んだ歌、 「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」 は明治からWW2にかけて日本人のかくあるべき姿を詠んだものとして祭り上げられるようになる。桜の花びらが散るように潔く国のために死ぬこと、たとえば特攻の正当化として、桜は政治利用されたのだ。 しかし戦前の文筆家たちの一部は、そうした潮流とは全く違う桜の見方をした。 萩原朔太郎室生犀星三好達治らの詩に登場する桜はセクシャルな要素・女性と結び付けられる。梶井基次郎のこの作品における桜もまた同様である。生殖と死にまつわるグロテスクへの気づきは「俺」を安堵させる要素である。酒宴を開く村人達は“歌垣”的な風習を残しているだろう。桜の樹の下には屍体が埋まっているのだという本質に思い至ってこそ、「俺」は村人らの純粋な生と同列に立てるのだ。

コメダ珈琲のエビカツサンド

久々に行ったら注文がタッチパネル式になってました。イイね!

今日頼んだのはエビカツサンド

どどん! 900カロリーオーバー……。 大層大きいと噂になっているので一回頼んでおきたかったんだけれど、期待通りのでかさです!スマホ2つ分くらいはあります。後ろにうっすら写ってる参考書が実は700ページくらいあるので、遠近法を差し引いてさえ分厚さもわかってもらえると思います。サンドなので最初はながら食べをしようという想定だったのですがふつうに無理ですね。

パンは表面だけ焼いて中はふわっとした感じでした。パサパサするのが嫌いな人におススメ。

中身のエビカツも見かけ倒しではありません。 と思ったら中身写真に写ってないじゃん! でもめっちゃすごいんです。という訳で公式のメニューURL貼っとく。

http://www.komeda.co.jp/menu/sandwich.html

以前エビフライセット、

これを頼んだので揚げ物が美味しいことは知っていました。今回のエビカツもサクサク!揚げたてじゃないかな? 衣が本体になっているような残念なことはありませんでした。具たるエビもぎっしり! 身が大きくなおかつソフト、プリプリした食感が堪りません。コメダはエビのプロ。 揚げ物自体もおいしいのですが、いっしょに間に挟んであるキャベツと生玉ねぎの量がまたちょうどいい。シャキシャキした食感も強く、サウザンソース(特製らしい)との相性もグッド。

ということで総評するとめちゃくちゃ良かった! わたし的にエビカツサンドはリピ決定です。 値段はサンドにしては高いですが、それ相応のボリュームはあると感じます。デザートや食後の紅茶を頼む余裕ははっきり言ってありませんでした。食が細い人や胃もたれしやすい人には向かないメニューかもしれませんね。

コメダは座席にコンセントがあったり客層が落ち着いていたりで好きな店です。 本来長居向けなのに何故かだいたいグラタンとかを頼んで終了になっちゃうので、今度行くときは何かいい感じのドリンクを頼みたいです。 生レモンスカッシュとかね!!

くら寿司

回転寿司で一番くら寿司が好きなのだが、だいたい家族で行き、確実に一人で行くことはない。というのも寿司は高級なの以外2貫で1皿。一人で行くと絶対飽きる。貧民なので高いのを頼むという発想はないのです。

サーモンが好きなので今メニューに載ってる厚切りサーモンは結構良かった。冷たいし脂が乗ってるしシャケ!って感じの味がする。ただネタの大小が不揃いなので注意。アンラッキーだとかな〜り小さい。 それからこの頃のホタテ復活は嬉しい。 2貫1皿からの消滅からの1貫1皿。 消滅期間が値上げへの反感を和らげている。

ホタテだけは高くなっても頼む。言うて100円だもん!

くら寿司のお得感を高める一因、びっくらポン。あれのせいで1の位が5か0じゃないと損の気がして余計に食べてしまう。 あっ別にオタクだけどくら寿司の漫画が好きなわけじゃないです。あとガチャガチャで出たものも全く欲しいわけじゃない。てかいらん。でもびっくらポンはやりたい。

人間の欲望、謎……。

“魔女”アビゲイルについて③

(幕間、VD、本編バレ注意)

(クトゥルフの話はしません)

 

アビゲイルは敬虔なクリスチャンだが、戒律に厳しいという訳ではない。分け隔てなく人を救おうとする。魔術師さえも、その動機が悪しきものでないのなら恐れない程に。これがラウムが愛し、罪状に数えた彼女の美質だ。

そして、ゆえにアビゲイルは“魔女”になる。

 

アビゲイルの名前はダビデの妻の一人から付けられた。そのためだろうか、生前のアビゲイルダビデのファンであった。セイレムのシナリオ中では彼の逸話を繰り返し持ち出した。

神を信じるがゆえに武具なしで巨人に立ち向かうほどの勇敢さと音曲を愛するやさしさとを兼ね備えたダビデの物語が、彼女の信仰観に大きな影響を与えたのだろう。

ちなみにカルデアダビデは実際アレだったのでアビゲイル的にもアレだが、結局竪琴を弾いている時の彼のことは好きらしい。ダビデからは「アビー」とあだ名で呼ばれていて、関係は割と良好。

 

アビゲイルのスタンスをわかりやすく示唆しているのはジェロニモとの関係だろう。アビゲイルは両親を殺害した先住民を恐れているが、ジェロニモが穏やかな人格者であることは理解している。彼女なりに距離を詰めようと日々努力しているようで、VDでは少し仲良くなれたことに嬉しそうにしていた。

 

このような彼女の信仰観、人生観といったものを特徴づけるのは偏見に囚われない隣人愛だ。そんな彼女の公正さは万人が罪を負っているという視座に基づく。その考えの根源であろう生前の話を彼女はほとんどしない。しかし作中の描写からどのような事態が進行したのかは伺い知ることができる。

 

清教徒の共同体での社会不安の高まりが、憎悪や集団的な感情を集中させるための生贄を望んだ。アビゲイルは悪魔を見たと言う。それが巫術者の才が見せたものなのか、比喩に過ぎないのかはわからない。とにかく彼女は悪魔を見た。人々もそれを求めていた。彼女はそのような暴力のメカニズムをよく知っていた上で、人々が望む通りに魔女を指し示す。

魔女裁判が終息するにつれて人々はその罪を堪え難いものと感じるようになった。秩序の回復にあたり最も忌まわしいものとされたのがアビゲイルだ。過去から目を背けたがる人々にアビゲイルは敢然と抵抗するが、最後には孤立するようになった。

 

アビゲイルの罪の意識が強いのは、生前目を背けられ裁かれることがなかったからだろう。シナリオ中のアビゲイルがセイレムという地に固執するのも同じことだ。村の人間は罪から目を背けるばかりだから、セイレムの誰も罪を解消することはできない。呵責だけが残る。死後も解き放たれない。

 

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アビゲイルがセイレムシナリオ中絶望のなかで魔女と名乗るが、それは彼女にとっての裁かれる苦痛そのものの1つでもあった。彼女はほんとうは魔女じゃないし、魔女と呼ばれるのはすごく嫌なのだ。

 

セイレムに本当の魔女はいなかった。つまりここでの“魔女”は虚構である。

しかし虚構から発見された神を宿す虚構の“魔女”アビゲイルの真実の救済は永劫の苦痛ではない。罪を忘れセイレムから旅立つことだ。

 

罪悪感に押しつぶされている状況は「昨日のわだかまりにとらわれ、明日に眼差しを向ける努力を怠る」ことにも繋がる。ラウムの繰り返す虚構に未来はなく、セイレムの再演は後悔を断罪するものだった。

しかしセイレムの演劇は、想像を膨らませては真理を汲み取るための未来への鏡としてある。

ソロモンとシバの女王」は共同体の在り方を問い、「三匹のジャンヌ」は連帯の重要性を説く。「西遊記」はアビゲイルの自由を望むラヴィニアの言葉に繋がる。

 

アビゲイルとラヴィニアは虚構から始まって、最期には本当の友人になった。セイレムから旅立ったアビゲイルは遥か未来、友人と再会する。その時にはきっと、虚構の“魔女”ではなくふつうの少女の夢を見るのだろう。

 

 

“魔女”アビゲイルについて②

長風呂してたら全消えして発狂した。

ので簡潔に覚書。

 

アビゲイル・ウィリアムズは1692年〜1693年のセイラム魔女裁判における最初の告発者の一人。当時12歳。悪魔に憑かれて痙攣の発作を起こしたんだっていうことになった女の子。ただし前半の裁判記録でしか登場しない。そのせいで「失踪した」とか「売春婦になった」とか後世で創作されて無辜りに無辜った。

 

ちなみにセイラム魔女裁判ではアビゲイルホッブズという同名の少女が魔女を自称して逮捕されてもいる。紛らわしいわ。

 

このセイラム魔女裁判はすごく有名な魔女狩り事件の一つ。一応魔女狩りについて説明しよう(いるか?)

魔女狩りの全盛期は中世じゃなくて近世。

あとカトリックよりプロテスタントで多い。新教は良い信仰とそれ以外を峻別したから。

産婆みたいな女性の知識を弾圧する教会のムーヴメントみたいに言われてた時期もあるけど産婆以外も死ぬし男も余裕で死ぬ。

ぶっちゃけ友達も家族もいない貧乏人は大体死ぬ。

金持ちでも身内に告発された事例がある。オフコース死ぬ。

行いがよくても死ぬ時は死ぬ。たとえばアビゲイル達が告発したとある女性は地元で尊敬されていた。

セイラムの魔女狩りでは200人くらい逮捕されたんだけど、これより被害者人数が多いものが16世紀に何個もあるのもまた強烈だ。

 

原因は一番主流の説だと集団ヒステリーだという風に言われている。わたしもそう思う。詐病には思えないし。清教徒らしく抑圧された生活をしている少女達が何かしらのきっかけでおかしくなるのは割とよくあるし。
アビゲイル ・ウィリアムズはたしかに冤罪を生み出した人物であるけれど、子供だった。彼女一人の責任でもない。仮に病気みたいなものなら、尚更責任を問うことが難しいと思う。

 

 

ところで、清教徒は演劇を偶像(偽り)と異教と退廃の温床として否定するものだ。

「異端なるセイレム」でもそういう描写はあったけれど、実際ならもっとひどい弾圧を受けたはずだ。演劇の代わりに説法があった。けれどほんとうは、魔女狩りが起きるような共同体には演劇も必要だったのではないか。

厳格な信仰がそうであるように、理性も万能ではない。一定の方向性の情熱と結びついた際には多くのものを抑圧する。そのうちの一つが想像力だ。しかし想像力が豊かでないことはいずれ理性を枯らす結果に繋がる。

「偽りのセイレム」で人々は躊躇いながら演劇を楽しむ。その裏では処刑が行われてしまうし、結局演劇一座は罪を問われる。それだけではなく、実際のセイレムはそもそもとっくに終わっている。繰り返して、死体が生前を再演しているだけだ。

楽しい時間としての劇中劇。処刑時の劇。再演し続けるセイレムそのもの。しかし果たしてほんとうに全く意味のないものなのだろうか?

 

その結果としてのアビゲイルの話をまた次回。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“魔女”アビゲイルについて①

最近更新していなかった。というのも、ここで書きたいことが思い浮かばなかったのだ。けれど今決めた。わたしは好きなことや面白いと思ったものの話を書くためにここを使おう。f:id:Unicorn161:20181017211041p:plain

 

今回はサーヴァントとしてのアビゲイル・ウィリアムズについて

最近は2臨で使用しているが、オススメは1臨

わたしが思うに彼女はFGOで一番少女らしい少女だ。

 

使い込む前にレベルを100にしたのでレベル100前提の使用感を語ることしかできないが、まずは性能をプレゼンする。

 

スキル1 信仰の祈り

周回にも高難易度にも役立つ名スキル。NPを配れるから軍略より強い。しかも宝具威力はレベル10なら30パーセントもアップする。

これでCランクなのだから清教徒はすごい。

 

スキル2  正気喪失

恐怖状態(確率スタン)はナメられがちだが、案外敵の動きを止めてくれる。体感では半々かな? 防御ダウンも使える。高難易度向き。

 

スキル3 魔女裁判

確定でチャージをダウンするので耐久パに必須。

 

ちなみにスキル優先度は1→3→2の順だと思う。ご覧の通り高難易度でのアタッカー向き。しかも全体のサポートも熟せる。なんと言っても先制強化解除機能付きの単体バスター宝具があるし、しかもスター集中が高いのでクリティカルブレイブチェインを狙える。しかも等倍なので混成に強い。

欠点は脆さ。等倍は雑に強いがクリ死亡率は高めなのだ。そしてガッツや無敵などの延命スキルを持たない。小さな体には持て余すほどの力と、自分を守れない儚さを持ち合わせた女の子だ。

はっきり言ってそれこそがアビゲイルの魅力だと思う。

そうは言っても実際の使用時に組ませるのがオススメなサーヴァントはその欠点から絞れる。

 

マーリン(マーリンは白米並みに何にでも合う)

ジャンヌ(アーツチェインを狙え。あと彼女に星出しを担当させるのもあり)

マシュ(アーツ以下略。盾になってくれる)

ダビデ(アーツ以下略。竪琴を聴かせてくれる。アビゲイルは敬虔なクリスチャンなので、ダビデ王に向けたボイスもあるし、単体バスター宝具を並べて使いたい局面というのは結構ある)

天草(天草が単騎にて最強なせいで各々勝手に戦っている感じにもなるが、アビ草のスキルで足止めと強化解除を繰り返すと最強マスターの気分を味わえる)

 

よく使う&よく借りる所だとこんな感じになる。高難易度ダビデは金枠でもなきゃ使わない人が多いかな? でもCCCコラボで高難易度キアラを倒す時は銀でもめっちゃ役立ったのでオススメ!

 

サーヴァントとしてのアビゲイルについては大体そんな風に紹介できると思う。

 

 

次記事は史実のアビゲイルについて。