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「桜の樹の下には」の話

自分の現文演習が第1回で終わっちゃってガチめにつまらんので、モチベ保つためにほかの人の発表やら先生の話の内容とそれについて思ったことをごちゃごちゃながらも軽くメモることにした。割と内輪向けのアカウントですし飽きたらやめます。 ちゃんとした勉強らしいまとめ方はしないので、色々不十分な部分はあると思うが許せ。

今回は梶井基次郎桜の樹の下には」!

https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.htm

読んでない人向けのあらすじ説明: 「俺」(成人男性、なんかやたらと暗い)が「お前」(同年代の男性と思しい)に向けて、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」という連想を語る。この「俺」という男は生命の繁栄の裏側にある死のイメージによって安心させられているらしい。

梶井基次郎の小説、死とか性のモチーフがやたら多い。「或る心の風景」も「冬の蝿」もそうだし。「交尾」「或る崖上の感情」も。ほかにもあるだろうが読んでないもしくは覚えていない。そういう主題の割に文章があんまり不潔じゃないというかむしろ透徹な感じがあるのはすごいと思う。

① 生死、美醜、性について

桜の樹の下には」は 美←→醜 生←→死 を桜の花とその根というかたちで対比している。空に向けて伸びる地上の花は美しく爛漫に咲き誇っているが、深くに伸びる地下の根は醜悪でグロテスクな屍体から養分を得る。 (そもそもその表現はボードレールの詩の影響を受けているんじゃないかという話もある)。 美醜・生死の相反する二つの性質は独立した別個の存在ではなくて、延長線上にあるものだという話。だから桜は「安全剃刀の刃」を連想させるし、削除された章によれば「俺」の想像する剃刀の刃には“Ever Ready”とある。 その桜の下でやっと不安にかられずに花見ができるようになるのだ。 ……という風に発表について理解した。 けれど屍体の描写は醜悪と意見に留めるにはあんまり綺麗だったとわたしは思う。「水晶のような液をたらたらとたらしている」の部分が特に。 また、交尾後の薄羽かげろうの屍体の描写も同様に美しい。何万匹もの亡骸は水に浮いてまるで油を流したような光彩を放っている。 ということで、授業内でお話のあった性のモチーフが大事になってくる。 美←→醜 生←→死 をつないでいると言えるのが性のモチーフだからだ。 まず花の美の形容、「生殖の後光」。 桜の根に対する「蛸」「いそぎんちゃく」の比喩。 「アフロディット」のように生まれ「美しい結婚」ののち産卵を済ませて死んだ薄羽かげろうの墓場を見て「屍体を嗜む変質者のようなよろこび」を味わう場面。 汗を「精液」と同一視させる描写。 生殖というのは本来生を生み出す営為であるが、梶井基次郎は生殖を死と密接に関わるものとして考えていた。薄羽かげろうの場面だけでなく、別作品ではあるが、「或る崖上の心情」にもそういう描写があると指摘されていた。 生死が表裏一体であるだけでなく美醜もひとつながりのものであるが、生殖のグロテスクと屍体のグロテスクは同一だ。 生死と美醜とは別個の対立項であり、負のイメージが必ずしも否定的なイメージとして描写される訳ではないことをここで確かめて置かねばならないだろう。

② 桜という表象

桜の樹の下には」の桜は山桜。 モデルになった湯ヶ島の桜が山桜なんだって。言われてみるとそっちの方が合う。 桜はそもそも頻繁に和歌で詠まれる歌材、すなわち伝統的な美意識にそぐわしい花である。 またそのために、桜というのは国粋主義者が臣民の象徴として扱われるようになる。 国学者本居宣長の詠んだ歌、 「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」 は明治からWW2にかけて日本人のかくあるべき姿を詠んだものとして祭り上げられるようになる。桜の花びらが散るように潔く国のために死ぬこと、たとえば特攻の正当化として、桜は政治利用されたのだ。 しかし戦前の文筆家たちの一部は、そうした潮流とは全く違う桜の見方をした。 萩原朔太郎室生犀星三好達治らの詩に登場する桜はセクシャルな要素・女性と結び付けられる。梶井基次郎のこの作品における桜もまた同様である。生殖と死にまつわるグロテスクへの気づきは「俺」を安堵させる要素である。酒宴を開く村人達は“歌垣”的な風習を残しているだろう。桜の樹の下には屍体が埋まっているのだという本質に思い至ってこそ、「俺」は村人らの純粋な生と同列に立てるのだ。