“魔女”アビゲイルについて③
(幕間、VD、本編バレ注意)
(クトゥルフの話はしません)
アビゲイルは敬虔なクリスチャンだが、戒律に厳しいという訳ではない。分け隔てなく人を救おうとする。魔術師さえも、その動機が悪しきものでないのなら恐れない程に。これがラウムが愛し、罪状に数えた彼女の美質だ。
そして、ゆえにアビゲイルは“魔女”になる。
アビゲイルの名前はダビデの妻の一人から付けられた。そのためだろうか、生前のアビゲイルはダビデのファンであった。セイレムのシナリオ中では彼の逸話を繰り返し持ち出した。
神を信じるがゆえに武具なしで巨人に立ち向かうほどの勇敢さと音曲を愛するやさしさとを兼ね備えたダビデの物語が、彼女の信仰観に大きな影響を与えたのだろう。
ちなみにカルデアのダビデは実際アレだったのでアビゲイル的にもアレだが、結局竪琴を弾いている時の彼のことは好きらしい。ダビデからは「アビー」とあだ名で呼ばれていて、関係は割と良好。
アビゲイルのスタンスをわかりやすく示唆しているのはジェロニモとの関係だろう。アビゲイルは両親を殺害した先住民を恐れているが、ジェロニモが穏やかな人格者であることは理解している。彼女なりに距離を詰めようと日々努力しているようで、VDでは少し仲良くなれたことに嬉しそうにしていた。
このような彼女の信仰観、人生観といったものを特徴づけるのは偏見に囚われない隣人愛だ。そんな彼女の公正さは万人が罪を負っているという視座に基づく。その考えの根源であろう生前の話を彼女はほとんどしない。しかし作中の描写からどのような事態が進行したのかは伺い知ることができる。
清教徒の共同体での社会不安の高まりが、憎悪や集団的な感情を集中させるための生贄を望んだ。アビゲイルは悪魔を見たと言う。それが巫術者の才が見せたものなのか、比喩に過ぎないのかはわからない。とにかく彼女は悪魔を見た。人々もそれを求めていた。彼女はそのような暴力のメカニズムをよく知っていた上で、人々が望む通りに魔女を指し示す。
魔女裁判が終息するにつれて人々はその罪を堪え難いものと感じるようになった。秩序の回復にあたり最も忌まわしいものとされたのがアビゲイルだ。過去から目を背けたがる人々にアビゲイルは敢然と抵抗するが、最後には孤立するようになった。
アビゲイルの罪の意識が強いのは、生前目を背けられ裁かれることがなかったからだろう。シナリオ中のアビゲイルがセイレムという地に固執するのも同じことだ。村の人間は罪から目を背けるばかりだから、セイレムの誰も罪を解消することはできない。呵責だけが残る。死後も解き放たれない。
アビゲイルがセイレムシナリオ中絶望のなかで魔女と名乗るが、それは彼女にとっての裁かれる苦痛そのものの1つでもあった。彼女はほんとうは魔女じゃないし、魔女と呼ばれるのはすごく嫌なのだ。
セイレムに本当の魔女はいなかった。つまりここでの“魔女”は虚構である。
しかし虚構から発見された神を宿す虚構の“魔女”アビゲイルの真実の救済は永劫の苦痛ではない。罪を忘れセイレムから旅立つことだ。
罪悪感に押しつぶされている状況は「昨日のわだかまりにとらわれ、明日に眼差しを向ける努力を怠る」ことにも繋がる。ラウムの繰り返す虚構に未来はなく、セイレムの再演は後悔を断罪するものだった。
しかしセイレムの演劇は、想像を膨らませては真理を汲み取るための未来への鏡としてある。
「ソロモンとシバの女王」は共同体の在り方を問い、「三匹のジャンヌ」は連帯の重要性を説く。「西遊記」はアビゲイルの自由を望むラヴィニアの言葉に繋がる。
アビゲイルとラヴィニアは虚構から始まって、最期には本当の友人になった。セイレムから旅立ったアビゲイルは遥か未来、友人と再会する。その時にはきっと、虚構の“魔女”ではなくふつうの少女の夢を見るのだろう。